以上、綱領と公約から希望の党の理念を読み込んでみたが、その内容は、
- 先進的人権観(多様性の擁護)
- 現実的国際観(9条改憲)
- 新自由主義(小さな政府)
の3つに集約されるといえる。
全く持って私好みであるし、そう感じる有権者は少なくないはずなのだ。しかし、希望の党は、近々民進党に吸収合併される運命にある。それはなぜなのか。
鍵は、やはり9条改憲?
まず、時系列を整理しよう。
- 9/27 綱領発表
- 9/29 「排除」発言
- 10/2 「政策協定書」判明
- 10/6 公約発表
希望の党の掲げる政策と相いれない民進党議員に対する、小池百合子党首の「排除」発言が、希望の党失速の契機となったとされている。
「排除」発言に対する批判の、その中身は何か。要約すると、それは「言葉がキツい」ということであって、つまりはごく単純な印象批判に過ぎない。小学生レベルの難癖である。10/2に合流希望議員に対して「政策協定書」への署名を迫ったのを「まるで踏み絵のようだ」などと批判されたが、これとてそうだ。肝心かなめの政策論が、まったく欠落しているのである。
これらは政策論から切り離された印象批評なのだから、そのように「印象付け」られた結果であるわけで、では、誰がなぜそのように「印象付け」たのか。それは、反自民の風に乗って東京都知事選を制した小池百合子氏に、自民党に対する強力なカウンターたることを期待していた護憲メディアが、9/27の綱領発表において、この小池新党が明らかな9条改憲派であることを見て取り、自らに対しての危険性を認識したからではないか。つまり、護憲メディアは、綱領発表の段階から虎視眈々と梯子外しの機会を伺い、「排除」発言でそれを得たので、一斉に「印象付け」を行ったのだ。
もちろん、素人の単なる推測であるが、私は都知事選のとき以来、保守政治家である小池氏と、氏を反自民風に大々的に売り出した護憲メディアとの蜜月は長く続かないだろうと思っていたし、9/27の綱領発表時には、これは護憲メディアがどう出るかとハラハラしつつ、29日以降一気にバッシングが来たものだから、私にとっては上記のように考えるのが最も自然なのである。
仮に、綱領に「護憲」が打ち出されていたら、どのように「印象付け」られていたろうか。改憲論者への「排除」発言ならば、護憲への断固たる意志を示すものとして賞賛すらされていたかもしれない。私は、そのようなメディアの特性を、必ずしも「悪」とはみなしてはいない。経済的主体として振舞わざるを得ない存在である以上、持てる能力と権益を駆使して自らを有利ならしめんと行動するのは当然であって、メディアに限らず誰だってそうのようにして存在している。だからこそ放送法第4条を改正し、放送内容に対する信用は視聴者自身が責任をもって判断すべし、と考えるのである。
保守系メディアからの援護もなし
護憲メディアのみならず、保守系メディアの批判内容もひどかった。
反自民(都連)を旗印に戦った都知事選のいきさつ上、小池新党が保守系メディアからの援護を受けられないであろうことは大方予想されていたところではあるが、ここでもただの印象批判が目立つ。
都知事選のころから言われていたが、小池氏は多くの党を渡り歩いてきた「渡り鳥」で信用がならない、という批判。実は、その移籍一つ一つをつぶさに検証してみればわかるが、最後の自民党離党を除くそのすべてが党自体の合流・分裂・消滅などによって選択を迫られた結果であり、言い換えれば、そのような結果になる運命の党を選んでしまった当然の帰結であるというだけの話である。大体にして、「渡り鳥」と揶揄される政治家のほとんどはそんなことだろうと思う。在籍した党の数だけ見て、単純にそれが多ければ「渡り鳥」のレッテルを貼られてしまうのだ。
また、彼らは、公約と同時に発表された「『希望への道』しるべ 12のゼロ」と「政策集」に関して、「『12のゼロ』や、『ユリノミクス』などの言葉ばかり踊って、薄っぺらで中身がない」「目標は御大層だが実現性の根拠に乏しい」などと批判する。しかし、「自民党の政策パンフレット」なるものと比べてみてほしい。言葉の踊り具合、薄っぺらの度合い、中身のなさ、目標の御大層な具合、実現可能性など、どれを取ったって大した違いなどないのである。「政策集」などそもそもがそういう性質のものなのだ。そりゃ、あちらには「実績」なる強力な宣伝要素があるが、結党したての野党にそんなもの期待したって、それはただの難癖である。
あくまで政策本位で評価されるのであれば、私はここまで「ボロクソ」な状況にはならなかったろうと思う。
まとめ
では、この悲劇を招いたものは何であったか。
メディアか。それはつい先ほど、「半ば」までは否定した。メディアはただただ経済的主体であるだけなのだ。しかし、そうであるからこそ、「政治的公平性」などという欺瞞を捨て、各メディアが己が立ち位置を明確にし、市場経済のプレイヤーであることを隠さずに、正々堂々と「印象付け」合戦をやればいいのだ、と、私は思う。この点に関しては、今後も引き続き論じたい。
インディペンデントの批評家や、ブロガー、ネット民などで、政策ベースで希望の党を語る者が、一部を除いてほとんどいなかったのも問題だ。大体は既存メディアと同じく、印象批評、良くて政局論に終始した。特に既存メディアのカウンターたるネット論壇がそんな調子で、私が好んで見ているブログなどでもそのようなものが多かったのが残念だ。
しかし、最大の原因は、ここで手のひら返しするようで恐縮だが、私は小池氏の側にあると思う。もちろん先述したメディアでよく言われるような意味においてではない。
一つは、リスク管理の観点から、「排除」「さらさらない」発言はすべきではなかった、ということである。「言葉がキツい」からそう言ってはいけなかったのではなく、有り体に言えば、メディアに上げ足を取られるからである。繰り返しになるが、立場が違ったうえでの「排除」発言ならば、問題にならなかった可能性があるのだ。
二つ目は、いわゆるそもそも論である。希望の党は、ダイバーシティと「普通の国」としての安全保障実現の両方を謳う、世界的基準でいえば標準的なリベラリストが集う政党として構想されたわけだが、日本では、一般の有権者の最も多いであろう層、すなわちワイドショー視聴者層を前にして、前者は言いやすく、後者は言いづらい。だから、今までは、前者ばかり強調して、後者をできるだけ言わないようにしてきた。しかし、いよいよ結党に際して、後者をどうしても言わねばならなかった。それが、綱領発表であり、その後の「排除」発言に対するバッシングは、今まで言ってこなかった分強烈な反動として跳ね返ってきた。つまり、そもそもの、9条改憲の言明に対するアプローチがまずかったのだと考えられる。ここはどうすれば良かったのか、何も希望の党に限らず、改憲派共通の課題であるが、私なぞは、いわゆる戦後民主主義を、終戦から東西冷戦終結までの期間の我が国の思想史の一部として、その存在価値を認めることから始めるべきだと思っている。一部の保守論者のように、戦後民主主義を強硬に否定して、あまつさえ何でもかんでも「論破」して悦に入るなぞ、まさに愚の骨頂である。
以上、三回にわたって希望の党の薄命の理由を探ってきたが、それが美人ゆえであったかどうか、一抹お考えいただきたいのである。
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